2004年08月27日
長い1年のはじまり
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夜、父から携帯に電話。東京に居た頃は気軽に電話をかけてきていた父も、あたしがこちらで同居を始めてからは気兼ねしてか、あまり電話をよこさなくなっていた。大分遅い時間にかかってきた電話だという事と、父の声の調子でだいたいの察しはついてしまった。電話をしている自分を少し離れたところから眺めているもう一人の自分が居て、そいつはひどく冷静なあたしに少し驚きながらも感心しているような気がした。
母の健康診断の結果が思わしくないのは知っていたし、今思えばあたし自身も何らかの確信を得ていたような気がする。だから、取り乱す事もなく、言葉を失う事もなかった。どちらかと言えば「来る時がきましたか、少し早かったような気がしますね。」というものだった。
結果は非情なもので、腫瘍がまだ小さく良性か悪性かも検査出来ず、大きさが1cmになるまで、少なくともあと1年はわらないと医者は言う。良性かもしれないという一縷の望みを頼りに希望を持とうと思ったところで、どうしても「だけど、もしかすると」という不安が台頭してくる。こんな胸を掻きむしりたくなるような状態であと1年を過ごさなくてはならないと思うと、気が重くなる。また一方で、やはりもう一人の自分が「何を深刻に考えているのさ、良性かもしれないぢゃないか。そんなに真顔で、癌かもしれないなんて真剣に考えちゃってさ。取越し苦労なんぢゃないの。後で良性だってわかった時には笑い話だね。まったく可笑しいよ。」と言う。それなら、それで良いのだ。むしろそうなって欲しいのだ。
健康診断の結果、肝臓が悪いのではないかと言われ、最初は町の総合病院に行ったのだという。そこでは血液検査のみで何ともないと言われた。だけど、何ともないはずはないと周りの誰もが思っていたし、本人が一番良くわかっていたのかもしれない。少し遠いところにある、地域では一番大きな病院へ行った。そしてやはり、腫瘍は存在していた。しかし肝臓ではなく、他のところに。帰って来た時はひどく落ち込んでいたという。いや、落ち込むというのは違うんではないか。恐怖に苛まれ、途方に暮れ、混乱していたに違いない。それが3日前。
年の離れた弟は大学生で今は家を出ている。2人でどんな3日間を過ごしたのか。こういう時、夫婦っていうのはどういう時間を共有するんだろう。
今は大分落ち着いて来てはいると父は言う。そして、父があたしに電話をした事は本人には黙っていて欲しい、本人が自分の口から告げるまでは待っていて欲しいこと、弟にも連絡はしないこと、お前は長女だから、という事を話した。長女って損だなぁ。いっつもこうだ。あたしは母が思っているほど弱くはない。だけど、父が思っているほど強くもないんだ。お姉ちゃんだからしっかりしなくちゃいけないと言われ、そんなもんだと信じ込み、ただそれを無意識に演じてきただけで本当はそんなに強い人間ぢゃないんだ。
父は最後に、お母さんに今居なくなられては困る、自分は一人では生きていけない、出来ることなら自分が代わってあげたい、と言って黙ってしまった。あたしにとって威厳ある父が今、あたしに弱音を吐いているのだ。長女だからというだけで、あたしに泣き言を言っている。この3日間の苦しさが痛い程伝わってくる。
母が居なくなったら父は生きていけるのだろうか、そんな事を何度か考えてみた事はある。しかし、現実としてTVドラマでよく聞くような台詞を自分が聞くというシーンはあたしの想像の中には組み込まれていなかった。
「お父さんが体を壊さないようにね、頑張ってね」と、言うべきなんだろうなぁと思いながら言った。父に向かって「頑張って」なんて励ますのは生まれて始めてだ。こんな時、頑張ってとか気を強くとかそんな言葉に意味があるんだろうか、そんな事を常々考えていた。しかし、ここで言わなければいつ言うのだ、あたしはこの人の娘なのだ、他人が言うそれとは全く意味が異なるんだ、言わないよりは言った方が良いに決まっている、そう考えた。
長い1年が始まったなぁ。
Comments (1)
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